昭和50年06月04日 朝の御理解



 御理解 第1節
 「今天地の開ける音を聞いて目をさませ。」

 金光大神覚えの中に、有難し仕合せに存し奉り候と言う言葉が三つ出ておると言う。私も一回金光大神覚えは読ませて頂いた位の事ですけど、所謂教祖の自叙伝とも言うべきものです。教祖様がずうっとおかげを受けて来られた事を、手控えなさっておられる、それを「金光大神」皆さんも一冊宛持っておられる事と思いますね。その中に出て来る中に、有難し仕合わせに存じ奉り候、と。
 その一番目にはどう言う時に使ってあるかと言うと、御自身が四十二才の大患の時に、愈々命もない程しの大患であられた訳ですが、不思議に奇跡的なおかげを受けられた訳ですね。その後に有難し仕合わせに存じ奉り候と、言うお言葉を使っておられます。次には神前撤去の事が御座いましたね。人が集まって来るお取次をなさる、人が助かる様になる。その神前撤去所謂、お上から神様を取り片付けてしまえと。
 取次の御用をしてはならないとお達しがあった時に、それを綺麗に御神前を取り片付けられて、そして人の為に拝まれると言う事をなされなくなった訳です。その時に家族中の方達が信心になって居られたと言う事ですね。お百姓を止められる、それから専ら御取次の御用をなさっとられて、言わば生活が成っておる。その拝まれておる神様を拝んではならない、人を集めてはならないと言うお達しがあった時に、もうその時は家族中の方達が御信心になっとられた。
 それでその時に例えば慌てる事もなからねば、さあどうしようかと言う悔やまれる事もない程しに、家族中がおかげを受けて居られる様を思われ、御覧になって有難し仕合わせに存じ奉り候と、言う言葉をお使いになって居られる。三番目には天地金乃神様よりの神願いがあり、所謂立教神伝が下がって、そして死んだと思うて慾を放して、お取次の事に専念される様になった。そしてどうしてこう様な事が出来たであろうかと、思う様な有難い事になって来ております。
 言うならば、自分自身の個人の助かりから家族中の助かり、そしてその家族中の助かりが、それを周囲の沢山の人が、助かって行くと言う事が有難し、どうしてこの様な事が出来たであろうか、と言う様なおかげに進展して来た、育って来た。そこの所で有難し仕合わせに存じ奉り候と言う、お言葉をお使いになっとられます。 皆さん所ではどう言う事になっとるでしょうか。皆さんも銘々に言うならおかげを受けられて、金光様の信心ちゃ有難い事じゃある。
 それこそ有難き仕合わせに存じ奉り候と言う所をです、だから惟は何処にも使える訳です。自分自身の助かり、けれどもそれがジッとして居ってはならんのです。それが家族中の助かりになって、来なければならんのです。ね。昨日の北野の秋山さんが午後から参られて、この頃からあの様に盛大なお宅祭りが御座いました。皆さんも御承知の様にまぁ一家を挙げての段々信心、まぁお父さんお母さん夫婦の信心を中心にして子供達も段々、同んなじ足並みを揃えてとまでは行かんけれどもまあ足並みが揃おうとしておる。
 最近久留米の方の孫が今度二人目の孫が出来まして、一人を里の方に預かってある。それで仲々手が外せんもんですから、朝の御祈念にもお参りが出来ん。お参りしょうと思うてもお昼間も仲々合間を見て参って来ると云う事が仲々出来ん。それで問題は次々と大変深刻な問題が家庭の仲に起きて来る。そう云う様な時に、私しはお届けを聞かして頂きよって、神様ちゃ秋山さん有難いですね、本当にそう云う深刻な問題がそのうあるたんびんに信心が進むと云う事になって来て居るのですから。
 して見るとそれは難儀な問題じゃないですなと云う事です。話を聞かして頂きますと、そう言う難儀な問題があった翌日、長男の光幸さんが、朝の御祈念にお母さん今朝の参らなかったかと言うて、参られんじゃった、と。どうして参らんじゃったのち、なら僕が明日から朝の御祈念に連れて参ろうと言うた、と言うお届けをしとられます。そして今朝恐らく光幸さん、お父さんもこうやって参っとられる。
 そのお届けを聞かせて頂いて、私くしはこの有難し仕合わせに存じ奉り候と言う事の、事を秋山さんに聞いて頂いたんです。ね。言うならば、断片的なと言うか、個人の助かりから、是は完璧と言わないけれども、家族中の者が勢を揃えて信心する様になり、しかも子供から朝参りを言われた、言われる程しに子供の信心も進んで行きよる。成程問題は色々問題がある、言うならばそれを難儀と言うかも知れないけれども、実はそれは難儀ではないなあ、本当に神様が信心をね。
 愈々進めさせて下さる為の働きとしか思われんなと言うて話した事でした。所謂教祖様がね神前撤去と云う事は、言うならば商売なら商売をしておる者が、商売を差し止められたのと同し事ですね。そう言う中にあっても家族の方が動揺なさらなった。もうその時分には自分自身一人の助かりから、もう家族中の助かりになって居られた事を有難し仕合わせに存じ奉り候と。自分の所謂自叙伝の中に書き記されておるので御座います。
 同時に例えばです今申しますように、あヽこれは困った事とか難儀な事じゃない、又こげな問題が起こってと言う事じゃない、それは問題じゃない、神様が家族を挙げての熱心な信心にならせて下さる為の、働きであると気付かせて頂いた時に、私は今、天地の開ける音を聞いて目を覚ました時だと思います。難儀が難儀ではない、御神慮であったと気付く、こう言う事によって子供達の信心までお引立て下さるかと思うたら、有難涙に暮れなければ居られないと言うのが、教祖様の御信心であった訳です。
 秋山さんの場合でも、それと同じ様な意味を持つものだと私しは思うです。ね。どうしてこげなややこしい問題ばっかり起こるじゃろかと言うとる間はまだ眠うして堪えん時、まだ目が覚めとらん時。どんなに鮮かなどんなに眼の覚める様な事があっても、例えば眼の覚める様なお話なしを例えば頂いておっても、眠うして堪えんと言うのは眼が覚めとらん時。ハッと自分でですそれこそ眠うしてこたえんけど、一事のお話しを聞いた途端に目がパチッと冴えて覚めたと言う様に心の目が覚めると言う事が信心です。
 仲々心の眼が冴えません。只その難儀から救うて貰いたい、只難儀から助けて頂きたい、その難儀のおかげで信心が解ると言う、それは難儀ではない。眼を覚まして下さろうとする神様の働きであると解った時、それは本当の事が解った事ですから、そこからのおかげの展開が素晴らしい。それこそ夢にも思わない様なおかげの展開とは、なって来るのです。その様にして一家中の信心が進んで行く、一家中の信心が只バラバラではない、本当の信心を目指して一家中の者の信心が出来て来る。
 難儀な問題が起こっても、およたれない、慌てない、動揺しない、そして一段と一家中の者の信心が一段とそこから冴えて来る。有難し信心のおかげと云う物は、そう言う時に有難いと私しは言わなければならない。只願った事が思う通りになった有難し、是は誰だって有難しです。そりゃ本当の有難しではない。例えばそう言う難儀が一家の上に起きておっても、一家の者が足並みを揃えて信心に向かわして頂けると言う事が有難いのである。其処ん所を教祖はね。
 有難し仕合わせに存じ奉り候と、書きしるされてある訳です。そう言う信心が段々生長して参ります内にです、言うならば、沢山の人が助かる事の為に自分の信心が貢献する。社会の難儀な氏子が取次助けられる事の為に、自分の信心が進んで行っておる。昨日是も岩光の安東さんがお参りされてのお届けでした。あちらもこの頃から盛大な宅祭りが御座いました。宅祭りと言うよりも、本当にあのう支部の御大祭の様にあった。
 岩光と言う、それこそ金光様のこの字も知らないと言う人ばっかりの村で、大体幸せその物の様な村で、神様仏様と言わんでも言うなら、こっぽりとした生活豊かな生活をしてある人達ばっかりの様な感じの村です。所が実際その村に入って見るとです、やっぱり様々な難儀な問題は、沢山あるとが解るのですけれども、言うならあの問題の家に入られた事から、村の人達が感心を寄せる様になった。誰が入っても、誰が入ってもその家には十日と、言わば保てた事のない家に。
 もう今に出て行きなさるが、と皆んなが言う様な目で見て居ったのが、一月経っても二月経っても益々賑やかな風になって、別に賑やかと言うても親子三人ですからそれで金光様の御信心、合楽の金光様があの家に移れと言われたから移ったげなと言う様な噂が立つ様になってです、あヽ金光様ちゃ有難い神様だちゅう云う風に関心を寄せられてです、それから次々と難儀な問題を安東さんの所へ持って来る様になった。そのたんびんになら合楽に連れてお参りしましょうと言う事に成ってお導きが出来る様になった。
 そう言う方達ばかりが、今度の謝恩祭には二十五名ありました。岩光地区の方達ばっかりが玉串を二十五名上げました。然かも合楽に皆んな導かれた方達ばかりなんです。まぁだ一年足らずですから、信心がその頂いても唯、金光様ちゃ有難い神様だなあと言う様な意味に於いて、まあお参りをする。だから此処まで仲々お参りが出来んと、お賽銭お初穂をことづけて、そしてあちらのお宅のお神様を拝まして下さい。
 あなたの話を聞かせて下さいと、最近ではもう外に出る事が出来ない位に何時来なさるじゃ解らんから、出られんと言われる位である。その代わり来るたんびに野菜を持って見えたり果物を持って見えたり、お米までこの頃持って見えて。野菜米は此の頃買わんで済むと言われますお下がりで。ならば一人の助かりから家族中の者の助かりになって、その家族中の者の助かりがです、言うならば鮮やかに言うならば、その信心の有難さを示しておる。言うならば、鮮やかに信心の光りが輝き出しておる。
 その輝きにですやっぱり潤おうとする人達が段々出来て来ておると言う事が有難い。私しはねそう言う自分一人、自分一家と言うのではなくてです、周囲に光りを及ぼして行ける様なおかげ頂けて来る。教祖様は其処ん所を又有難し仕合わせに。もうそのう親先生もう今度の宅祭りからこっち、村の方達が次々とそのお参りされる方達が多くなった。どげん考えたっちゃ然し勿体ない事ですと言うて、昨日お届けがありました。
 しかも私の様な者の話を皆んなが求めて、あヽおかげで今日は話を聞いて助かったと言うて、皆んなが帰られる。言うなら自分の仕事が出来ない位に人が、そして集まって来られると云う事は、なんとまあそれこそ有難き仕合わせに存じ奉り候と、神様にお礼を申し上げねば居られない事になって来るのです。しかもそれがです一人が本当に助かる事によってです、千人も万人もの者が助かる程しになって来る様な働きを示して行けれる、信心。それ程の内容を持った信心だと言う事であります。
 私も夕べこちらにお礼に出らして頂いて、もう退って布団の中に入りました。けれどもそれこそ有難うして有難うしてどんこん眠られん。あれを思い是を思いさして頂いて、それこそもう本当に有難し仕合わせに存じ奉り候と、教祖様なら私もそう言う言葉をもってしただろうと思う位に有難い。そして私くしはです、どうして私くし位の人間、私くし位に言わば無学でまあ言うなら、人間はどっちか言うと馬鹿んごとある男であります私くしにです、どうして神様はこの様なおかげを下さるだろうか。
 人間としての幸せの条件の全てが足らうと言うが、私くしの場合にはそれが最高に勿体ないおかげの中に、足ろうて行っておる事実を、あれを思い是を思いする時です、眠られん位に有難いです。また起き上がってから御祈念さして頂いとりましたら、死んだ気での信心と言うな意味の事を頂きました。是私の修行中の時分に、言うならば一生懸命の信心と言う事になるのでしょうか。
 一生懸命は一生命を懸けると書いてあります。命を懸けると云う事、それが一生懸命です「死んだ気で励め勤めよ、徳が付く、道も開ける人も助かる」そう言う詠の御教えを頂いとった時分が、それこそ矢張り命懸ける信心だった。命懸けと言うと大変こう厳しい様ですけど、只、一生懸命の信心であったと言う事であります。この一生懸命にはもう人が人がと言うが、家族中の者が付いて来なければ居られなかった様に思います。もちろん人も付いて来ました。
 皆さん一生懸命の様であってもですね、矢張り命を懸けると云う事が一生懸命です。勿論だから人には言い訳は出来るけれども、神様には言い訳は出来んと言う。言うならば、そう言う神様を焦点にしての信心であったと言う事です。一生懸命の信心をさせて頂く、言うならば命を懸けての、信心をさせて頂くと言う事になる、ほんな事考えて見ると、矢張り本当に死んだ気でと、言う事であったなと自分では思います。
 言うならば、暑い寒いを言わん不平不足を言わん、然かも神様が求めなさる修行ならば、黙って受けて行こうと言う、言うならば愈々成行きを大切にさせて頂こうと言った様な信心がその頃育って来た。それこそうどんを出されてもスメが入っとらんでも黙って頂いた。是はあんたスメが入っとらんぢゃんの、とは言わなかった。もう死んだ気でだから、お位牌さんが物言わっしゃる筈はないと言う位に、徹底した考え方で、その時分は信心を進めて行っておった。
 私くしがなら今日はこう言うおかげを頂いて。それこそ有難し仕合わせに存じ奉り候と言う程しのおかげを頂いておると云う事は、私が信心に命を賭けたからだと言う事です。一生懸命だったからと云う事です。一生懸命に信心が一生懸命になって来る時には、もう不平も不足もなくなって来るです。何時も皆さんが聞いて下さる様にです、私の二十五年間の言うなら信心を振り返って見ると、確かにそうでした。
 その事をお礼申して頂いとりましたら、御心眼にね真っ黒に、あのう何か大きな気を焼いた様なあのう古風な、今そこのあの応接間の前に私しの書いたあの額が上がっとるでしょう、木の黒いのにこして字を書いて、彫ってあるやつですかね、あヽ言う様に真っ黒の木なんです。それにねもう真っ青です、所謂青色の字で夢楽と書いてある額を頂きました、真っ黒の木です。
 是は何か焼き杉ですかね、杉を例えば木を焼きますと真っ黒くなりましょう、その真っ黒の古風なその木にです、緑色でですもう鮮やかな緑色で夢楽とこう、夢の楽と書いてある。そう言う額を頂きました。はあヽ私はそれを頂いてまた愈々有難くなって来た。皆さんどう云う事だと思うですか、真っ黒と云うとはそれこそ真っ黒言うならね、本当にもう本当に難儀の真中と云う事でしょうか、様々な難儀と云う事真っ暗、それに青と云う事は是は此処では青の色を頂くと元気な心と云う事です。
 生々とした心と云う事です。皆さん御承知でしょうが、青と黒ほどマッチした色はありません。調和の取れた色はありません。真っ黒に緑色で書いたら、もう実にそれは何とも言えん、この調和の取れたものんなります。真っ黒にね、緑色で字を書いたと言う事はどう言う事かと言うと、もうどう言う難儀な中にあっても生々とした信心、緑色の信心をさして、しかもその真っ黒とマッチしておる。
 その真っ黒と調和しておる苦労と信心とが、ころ離れていない。こがしこ信心するとにどうしておかげ頂ききらんぢゃろうか、と言った様なもんがさらさらない。どう言う、それこそ眼の前が真っ黒うなる様な、それこそ事が起こっても、其処にはもう生々とした信心、緑色の信心が出来ておるから、緑色と黒とがパットこう密着しておる、一つになっておる、調和しておる。
 私くしの自分の信心を振り返って見るたんびに、様々な難儀な問題がありました。ありましたけれどもそれが何時もです、生々とした信心に依ってそれは難儀ではない有難いものだと思う事になってしまって、何時も居ったと云う事で御座います。皆さんどうでもね、難儀を難儀と感ずる間はまぁだ本なこっちゃなかです。黒と緑色が言わば調和の取れた、言うなら調和色である様にです、その難儀と私共の信心が密着する所から有難いと言う、有難し仕合わせに存じ奉り候と言う様な心の状態が開けて来るです。
 青と黒とが一つになったら、状態です。しかも夢楽と書いてある。何時も言う、私共が願うた、おかげが成就する、と言うのじゃなくて、それこそ夢にも思わなかった様なおかげの展開があると云う事。ね。楽と言う事は極楽の楽にも通じましょう、合楽の楽にも通じましょう、和楽信楽の楽にも通じましょう、然かもそれは夢の様な世界だ。夢にも思わなかった様なおかげがです展開して来ておる。
  その中にある私が、どう思うても私位な人間に、私位の人物の所に神様が、どうして神様がこの様なおかげを下さるであろうかと思うたら、有難し仕合わせに存じ奉り候と。教祖の神様ではなくても、言わなれば思わなければ居られない程しのおかげが開けて来て居るのです。私くしは今天地の開ける音を聞いて眼をさませと云う事は、その様な事だと思うのです。どう云う難儀な事に直面しておっても、それは難儀ではない神愛だと悟らして貰うのです。言うならば、黒と青がピッタリ調和すると云う事です。
 それが私しは自分の心が開けた時、心の眼が覚めた時なのです。心の眼が覚めて然かも眼のさめる様なお話を例えば頂いておるのですから、愈々心の眼が冴えきって来る、有難いと言う心がね、もう限り無い有難いに繋がって行く事が出来る。教祖の神様の御信心を、例えば有難し仕合わせに存じ奉り候と言うお言葉が、金光大神覚えの中に三ケ所出ておる。その三箇所の一つは自分自身が助けられた時、命を頂かれた時。
 二番目にはそれこそ目の前が真っ黒う、サア是から先どげんして生活をして行こうかと言う様な、大変な問題に直面されても、もうすでに家族中の方達の信心が微動だもしなかった、と言う時に有難し仕合わせに存じ奉り候と、言う言葉を使って書き記しておられる。しかもそう言う信心がです、世の中の言うならば、難儀な氏子が助けられて行く事の為に、自分の信心がお役に立っておると言うその事実を思われて、又有難し仕合わせに存じ奉り候と言っておられます。
 皆さんの信心の過程を思うて見て、果たしてそう言うあヽ苦しかった苦しかったばってん只おかげ頂けたではなくてその、苦しいと言うその中に苦しいではなくてです、有難しと言うものが開けて来る。おかげを頂く言うならば心の眼が覚める程しのおかげを頂いた時にです、初めて夢にも思わなったおかげの展開があるのです。それにはね言うならば一生懸命でそれを、大変厳しい言葉で言うと死んだ気でと云う事になるのです。
 死んだ気でのいうなら一生懸命で信心しとる者が、あれが欲しいあれが食べたい、あげな着物を着ろうごたるてんなんてんちゅうとる時には、絶対一生懸命ぢゃない時です。死んだ気じゃない時ですね。、言うならばなら私共がです、それこそ布一寸買いません、米一粒買いません、風呂にどん入ろうとは思いません とても死んだ気にならなければ、そげな事なんて出来んです。そこにです例えば夢にも思わなかった様な、風呂にも入らせにゃおかんと言う働き。
 着物もそれこそ最高のものを着せにゃおかんと言う働き、食べ物でもそれこそ最高の山海の珍味を与えずば置かんと言う働きが出て来ておる。その働きの中に私くしが在ります所に、私の様な者がどうしてこう言うおかげを頂ける様になっただろうかと言うのが、昨夜の事で御座います。そしてそれはお前が死んだ気で励んだからぢゃ、そして何時の場合でも難儀で苦労と云う物ではなくても、その苦労が苦労であればある程に、愈々真っ青なと言うかね、青い生々とした信心を以ってそれに当たって行く時に。
 その黒と青との調和の模様がです、もうすでに眼を覚ました者の生き方に成っておるからだと言う事であります。皆様折角信心されるのですからへ、一つ本気でね一生懸命の信心せねばいけません。それこそ何時もあのう申しますようにね、楽はせんぞと言う気になって、させにゃおかんと言う楽ぢゃなければ本な楽ぢゃありませんです。あれが買いたい是が食べたい、もう本当にあんたどんばっかりは借金ばこう持っとってから、ようそげな事が言えれるの、と言おうごとあるばってん。
 本人はそこまで行ってないから、そんなら買わじゃこてと言う事になって来る訳です。もうそれこそ与えずばおかんと言う働きで与えられる物はもう、本当に素晴らしいです。そこに愈々信心の言うならば妙賀と言うか、それこそ信心の喜びを感じる生活が愈々出来る事になります。今天地の開ける音を聞いて眼を覚ませ、先ず皆さん御理解をそれこそ毎朝皆さんこの様に、眼の覚める様な御理解を頂いて居るのですから、眠かっ位はパチッと目が覚める位の信心をいっちょ頂かねば駄目です。
 それこそ目には目張りごぼうの事こうして、一生懸命してる人がありますがね、おかしな話ですよ。形だけ覚めたっちゃでけん、心から覚めにゃ。愈々心の目を覚ます、言うならば、今天地の開ける音を聞いて眼を覚まさして頂いての、それからの信心はもう愈々もう有難い事のばっかり、もう愈々お徳にお徳の花が咲き、お徳の実が稔って行くと言うおかげになって行くのですから、こんな有難い事はないです。だから本当の一つ天地の開ける音に眼を覚まさして貰うて、おかげを頂きたいですね。
   どうぞ。